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雨晴海岸特選写真集

おくのほそ道の風景地~有磯海~

文化庁では、『おくのほそ道』に登場する名所・旧跡のうち、優れた風致景観を名勝「おくのほそ道の風景地」として文化財に指定しています。(11県18市町24箇所)
高岡市においてこの指定を受けている「有磯海」のある太田地区の魅力をご紹介します。

渋谿(しぶたに)の崎

海越しに望む立山

奈良時代に越中国守としてこの地に赴任した大伴家持は、5年間の在任中に多くの歌を万葉集に残しています。また、彼が歌に詠んだ歌枕は「万葉故地」として今も多くの人に愛されています。「渋谿(しぶたに)の崎」もそうした万葉故地の一つです。
奈良で青春時代を過ごした家持にとって「鄙(ひな)さかる越中」の風土は新鮮で、彼の持って生まれた歌の才能を瑞々しく開花させるに十分な魅力をもっていました。特に伏木にあった国庁からほど近い渋谿は、彼のお気に入りの散歩コースだったに違いありません。

馬竝(うまな)めていざうち行かな渋谿の清き磯(いそ)廻(み)に寄する波見に(『万葉集』巻17・3957)


(馬を並べて、さぁそろって出かけよう。渋谿の清らかな磯辺に寄せる波を見に。)

渋谿の崎の荒磯(ありそ)に寄する波いやしくしくに古へ思ほゆ(『万葉集』巻17・3986)


(渋谿の崎の荒磯に寄せる波のように、なおもしきりに昔が思われる。)

これらの歌は、当時からこのあたりには波が砕ける磯があったことを示しています。
近世になると、俳人芭蕉も「奥の細道」を巡る旅の途次に近くを通りかかりました。

早稲の香や分け入る右は有磯海


(ここでは早稲が実って香りが漂ってくる。その早稲を分け入って進むと右側には有磯海が見えることだ。)

当然芭蕉の脳裏には万葉集の歌枕「荒磯(ありそ)」があったはずです。
また、このあたりから富山湾越しに望む3000m級の立山連峰の姿は世界でも稀な絶景で、富山県を代表する景観のひとつとして夙に有名です。特に、初冬から春先にかけて空気が澄みわたった日には、海からたち昇る「けあらし」が朝日に煙る光景や、白銀を頂く立山連峰が眺望でき、多くの写真愛好家にも愛されています。一帯の雨晴海岸は、能登半島国定公園の一部をなしています。

<太田地区の万葉歌碑>上記の他、次の家持の万葉歌碑が地区内にあります。

渋谿の二上山に鷲そ子産(こむ)といふ翳(さしは)にも君が御為(みため)に鷲そ子産といふ (『万葉集』巻16・3882)


(渋谿の二上山に鷲が子を生むそうな 指羽の料になり君のお役に立とうと鷲が子を生むそうな)

※太田の湯 入り口

渋谿を指して我がゆくこの濱に月夜(つくよ)飽きてむ馬しまし停(と)め(『万葉集』巻19・4206)

※太田小学校前庭


(渋谿をさしてわれわれが行くこの浜で月を飽くまで見よう。馬をしばらく止めよ。)

つままの碑

雨晴トンネルを抜け、国道415号線を義経岩の方に下ってくると、右側に小さな公園を見つけることができます。この公園は「つまま公園」と呼ばれて、園内にはつままの木(タブの木)の傍らに古い雨晴石の万葉歌碑が建てられています。この歌碑は、製作年のわかる歌碑では、嘉永6年(1853)に建てられた岩瀬(富山市)の「伊波世野爾(いはせのに)」の歌碑に次ぐ古い歌碑で、安政5年(1858)年に太田村伊勢領の肝煎宗九郎が建立したものといわれています。宗九郎は学識があり万葉集にも造詣が深かったといわれ、つままの木の近くに歌碑を建てたのも「つまま」が「タブ」であることをしっかり認識していたからだと考えられています。

磯上之都萬麻乎見者根乎延而年深有之神佐備尓家里

(磯の上のつままを見れば根をはえて年深からし神すさびにけり)


(磯の上のつままを見ると、根を広げて年を経たらしい 神々しくなっている。)(『万葉集』巻19-4159)

麻都太江(まつだえ)の長浜

万葉集の「布勢の水海に遊覧する賦」(巻17-3991)に見える「麻(ま)都(つ)太(だ)江(え)の長浜」は、雨晴海岸から島尾海岸にかけての白砂青松の砂浜で、夏には海水浴客でにぎわうところです。高岡市内では「松太枝浜」、氷見市内では「松田江浜」と書き分けています。大伴家持は、この長浜を通って「布勢の水海」に遊び、出挙のため能登に出かけたときには早朝に珠洲を漕ぎ出し、この長浜に向けて帰途を急いでいます。

珠洲の海に朝びらきしてこぎ来れば長浜の浦に月照りにけり(『万葉集』巻17-4029)


(珠洲の海で朝舟を出して漕いで来ると、長浜の浦では月が照っている。)

いま、高岡市から氷見市にかけての長浜は、「日本の渚百選」や「日本の白砂青松百選」にも選ばれています。また、富山湾越しの立山連峰の眺望地としても知られています。なお、この眺望は能登半島の富山湾沿いに、遠く珠洲市からも拝むことができます

義経伝説

義経社、義経岩

義経伝説は全国各地で様々な形で語られ、伝承されています。ここ雨晴の地名もそんな義経伝説にちなんでいます。壇の浦に平家を追討した英雄源九郎義経も、やがて鎌倉に幕府を開いた兄頼朝から疎まれ、その追捕を受けてわずかな主従とともに奥州平泉の藤原氏を頼って落ちのびていったと伝えられています。文治3年(1187)その途中、たまたまここにさしかかってにわか雨に見舞われたとき、弁慶が怪力をもってして岩を持ち上げてほこらを造り、雨宿りしたと伝えられています。このことからこの地が雨晴と名付けられました。そんな縁でいま、義経岩とよばれる岩塊には、義経社が祀れています。一方、このあたり一帯は古くからの石切り場で、高岡築城の折にもここからも石が切り出され、いまも高岡城の石垣に確認することができます。

<このほかの義経伝説>

如意の渡し:小矢部川河口にあったとされる伏木から六渡寺方面にわたる渡し場で、義経主従がここにさしかかった時に、渡し守から義経主従ではないかと疑われてしまいます。ここで弁慶が機転を利かせて「お前のために疑われたではないか」と扇で義経を打ちすえたことから、渡し守も疑いを解き、主従はなんとか渡し場を渡ったといわれています。これは、室町初期の軍記物『義経記』の一節、「如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事」の段に出てくる話ですが、伏木の如意の渡し碑のあるあたりがその舞台となったところとされています。これが能の『安宅』や歌舞伎の『勧進帳』などのモデルの一つになったといわれています。
氣多神社:伏木一宮にある重要文化財の氣多神社の本殿には、柱と床に穴があいており、これは弁慶が拳で柱をへこませ、かかとで床に穴をうがったものだと言い伝えられています。

紅葉姫伝説

紅葉姫公園

太田地区の紅葉谷と呼ばれるところにまつわる伝説です。
その昔渋谷村に、労役のために都にかりだされた太郎という若者がいました。太郎は御所で雑役に就いていましたが、あるとき庭の掃除をしているとふと古里が恋しくて思わず歌を口ずさんでしまいます。その歌声は切々として美しく、だれもがうっとり聞き入ってしまうほどでした。この歌声は、たまたま通りかかった「紅葉姫」と呼ばれる宮中のやんごとない姫君の耳にも届きます。たちまち恋に陥った二人は、許されるはずのない恋の炎に身を焼くことになります。しかし、この身分を超えた恋はやがて帝の知るところとなり、これを深く憐れんだ帝もついに二人の恋を認めることとなりました。そのうち労役も終わり、二人は、手に手を取って太郎のふるさと渋谷にむけて旅立ちます。そして、砺波山を越えて越中に入り、二上山のすそ野を廻り、もうすぐそこが渋谷というところまでようやく辿りつきました。長旅で食料も尽き、疲れ果てた二人はここでしばしの休息を取ることになりました。太郎はなんとか空腹の姫を慰めようと、姫を残して食べ物をさがしに出かけます。しかし、太郎はなかなか帰って来ません。だんだん不安になってきた姫は、なんとか自分の力で太郎のふるさとにたどり着こうと疲れ果てた身を起して山に分け入ります。しかし、ここは見知らぬ土地、自分がどこにいるかも分かるはずがなく、やがて道に迷ってしまいました。
一方の太郎は、ようようのことで食べ物を集め、姫の待っているところに戻りますが、そこにすでに姫の姿はありません。太郎はにわかな胸騒ぎを覚え、あたり一帯を探し回りますが、なかなか姫を見つけることはできません。そして、ここを越えれば渋谷の里という小川のほとりにたどり着いたとき、太郎はすでにこと切れ、冷たいむくろと化した姫を見つけたのでした。渋谷の人々もこれを知って悲しみ、二度とこのようなことがないようにと、その小川に橋をかけたのでした。その橋は姫の名前にちなんで「紅葉橋」とよばれ、姫の亡くなった谷は、誰がいうとはなく紅葉谷と呼ばれるようになったということです。
いま、雨晴トンネルを伏木側からぬけた海を見下ろす丘には「紅葉姫像」が建てられ、紅葉姫公園として眺望のきく見晴らし台になっています。

※参考図書:『高岡の伝承』(高岡市児童文化協会 1979)

首切り地蔵の伝説

首切り地蔵

時は戦国時代。越中や能登の覇権をめぐって越後の上杉氏(長尾)と七尾城に拠っていた能登守護の畠山氏は激しく対立していました。
天正5年(1577)7月、満を持した上杉謙信は能登攻めを開始し、氷見の森寺城の攻略ために軍船を仕立て、富山湾を横切って一気に氷見を目指そうとします。しかし、船団が太田の沖合に達すると、なぜか軍船が一向に進まなくなってしまいます。これを目の当たりにした謙信の武将、鰺坂長実(あじさかながざね)は「これは魔神のなせるわざに違いない」と訝しみ、船を下りて辺りを探索すると、豈(あに)はからんや海辺でニッコリ笑う地蔵が沖合を見つめているではありませんか。長実は「これぞ魔神の正体に違いない」と、地蔵めがけて刀を一閃すると、地蔵の首が転げ落ち、船団はなにごともなかったように進み始めたといわれています。これにより謙信は森寺城を攻略、同年9月には、畠山氏の本拠地、七尾城を陥落させました。余談ですが、地元では、この地蔵の頭をもっていると勝負事に負けないとの言い伝えがあるといわれています。

上日寺の観音様の上陸地点

上日寺

氷見の朝日山にある上日寺は、国指定の天然記念物のオオイチョウでも有名な白鳳時代創建といわれる古刹です。この上日寺に伝わる観音様が見つかったのが雨晴地内だといわれています。
その昔、氷見の加納に当麻さ(たいまさ)と呼ばれる男がいました。あるとき、当麻さが太田の道を歩いているとどこかで「当麻さぁ~、当麻さぁ~」と自分を呼ぶ声がしました。周りをみまわしますが、辺りに人はいません。さらによく探すと土が小高く盛り上がっているところから声が聞こえます。急いでそこに行ってみると、その上に5センチほどの黄金に輝く観音様の像が立っていらっしゃるではありませんか。当麻さはびっくり仰天。さっそくその観音を取り出し、「さあ、どうしたらいいものか」とあれこれ考えましたが、いい考えが浮かびません。しかし、突然閃いて「そうだ。朝日のよく当たる上日寺さんに預かってもらおう」と思い立ちます。このようなことから、この観音様は、上日寺に収まることになったと伝えられています。
いま、観音様の出現した丘には「朝日山観世音出現の地」を示す石碑が建てられおり、旧道からも垣間見えます。

桜谷古墳(国史跡)

桜谷古墳

小矢部市から高岡市にかけての西山丘陵一帯には、数多くの古墳が点在しています。これは、とりもなおさず古から、人々が野や山に糧を求め、暮らしてきた生活の場そのものであったことを示しています。
その西山丘陵が二上山塊を経て富山湾に没する太田地区にも多くの古墳が見受けられます。その中でもひときわ大きいのが桜谷古墳です。現在、前方後円墳である1号墳と2号墳を間近に見ることができます。
1・2号墳は、5世紀初頭を下らぬ時代の築造と推定されています。ともに北陸地方でも最大級の前方後円墳といわれ、この地を支配した有力豪族の墓〔被葬者を伊弥頭(いみずの)国造である大河音足尼(おおかわとのすくね)一族とする説もある〕と考えられています。ここからは内行花文鏡(ないこうかもんきょう)や管玉(くだたま)、碧玉製石釧(へきぎょくせいいしくしろ)などが出土しています。
また、ここから少し離れた氷見地内には、このあたりでもひときわ大きい前方後方墳の「柳田布尾山古墳」(国史跡)があります。まさしくこのあたりは越中文化発祥の地だったのかも知れません。

摩頂山国泰寺(まちょうさんこくたいじ)(臨済宗国泰寺派大本山)

摩頂山国泰寺

国泰寺は、中世に慈雲妙意(じうんみょうい)が開いたとされる禅の古刹です。慈雲妙意は行脚の途中に二上山に草庵を結び坐禅にいそしみました。そのとき、たまたま通りかかった孤峰覚明(こほうかくみょう/三国国師)に誘われて、紀伊国由良の西方寺(現興国寺)の無本覚心(法燈国師)に参じ、大悟したといわれています。
その後、この地に帰り、嘉元2年(1304)に二上山中に東松寺を開き、後進の指導に当たりました。やがてその高名は後醍醐天皇の耳にも達し、「清泉禅師」の号を賜るとともに「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、勅願寺になったと寺伝に見えます。その後、前田利長が守山に居城したころ現在地に寺基を移したようです。明治になり、この寺にも廃仏毀釈の嵐が吹き荒れましたが、越叟、雪門良和尚は山岡鉄舟の支援を受けながら堂宇の修復に努めました。また雪門和尚のもとには、若き時代の西田幾多郎や鈴木大拙も参禅したことが知られています。(水上勉『破鞋』)
現在、国泰寺は、6月2日から3日に行われる開山忌がよく知られおり、全国から集まった虚無僧が僧侶の読経に合わせて尺八演奏を奉じています。
先代住職の心田和尚が建立した利生塔は、法隆寺の宮大工として有名な西岡常一棟梁の手になるものとして知られています。また、周囲の民宿などでは春先から、「筍料理」が供され、これを目当てに訪れる人も多くいます。

武田家住宅(重要文化財)

武田家

武田家は、武田信玄の弟である逍遥軒信綱に祖を発する旧家といわれ、藩政時代には代々当地の肝煎りを務めた豪農です。現在の建物は、間口、奥行ともに約21メートルで、18世紀末に伏木の勝興寺(重文)の本堂が建てられたときの余材を用いたと伝えられています。内から見上げた梁の木組みなどは豪壮そのもので、屋根などに富山県の平野部の近世民家建築の様式が見られるとして、国の重要文化財に指定されています。
明治時代以降にも山岡鉄舟など多くの文人墨客がここを訪れ、横山大観は義経岩を描いた一幅の絵を残しています。
また、映画「少年時代」(原作:藤子・A・不二雄)のロケ地などにもなっています。

越中式定置網

富山湾は定置網の盛んなところで、特に太田地区から氷見市にかけての海岸には多くの定置網の魚場が設定されています。太田地区の丘陵からも幾何学的な定置網の様子を見ることができます。(自然休養村ほか)
定置網は、一定海域に網を固定して魚の回遊性をたくみに利用して行う漁法で、16世の末ごろにすでに行われていたといわれています。特に富山湾の定置網は「越中式」とよばれ、近年ではタイ王国などに技術指導がなされるようになっています。特に氷見沖は、定置網を使ったブリの漁場として名を馳せています。

太田地区の特産

・サツマイモ(太田農園、殿山農園、JA高岡太田支店ほか)
・ブドウ、リンゴ、モモ(殿山農園)
・タケノコ料理(西田地区)
・しめ縄(西田地区)

太田地区の温泉・宿泊施設

・雨晴温泉「磯はなび」(宿泊、温泉、宴会)
・太田自然休養村「アッパレハウス」(宿泊、入浴、宴会、グリンツーリズム)
・太田の湯(療養)

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